京都岩倉 実相院門跡

実相院は元天台宗の寺門派
(天台宗には山門派と寺門派があります)の単立寺院で、
ご本尊は鎌倉時代に作られたと伝えられる木造立像の不動明王です。
実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれています。
その理由は実相院が門跡寺院であるからです。
門跡寺院とはその寺院の住職を天皇家の血を引く方々が務められていた、
格式の高い寺院のことで、代々皇室から大きな支援を受けて栄えていました。
とくに室町時代から江戸時代にかけては、
天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました。
門跡寺院となったのは、静基(じょうき)僧正が開山された、寛喜元年(1229年)のことで、
そのころは北区の紫野にありました。約800年の歴史があります。
その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは
応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われています。
その後、義周(ぎしゅう)法親王が門跡となられたとき、
京都御所から大宮御所「承秋門院(じょうしゅうもんいん)の旧宮殿」の一部が下賜されました。
それらが、正面の門「四脚門」、玄関横の「御車寄」、中の建物「客殿」です。
とても大掛かりな工事をして移築したことがうかがえます。
当時はここで、格式高い家柄の人々が集い、和歌の会や、お茶会などを開いていました。
そのころの様子のわかる古文書の数々が今も残っています。

義尊、法誓院三位局について

江戸時代初期に入寺した、義尊(ぎそん)は足利義昭の孫にあたります。
義尊の母、法誓院三位局(さんみのつぼね)は
義昭の子高山(法厳院)との間に義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)をもうけ、
さらに後陽成天皇(一説によると後水尾天皇)との間にも 道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、
義尊は皇子同様にして後陽成天皇の寵愛を受けました。
両天皇、東福門院、三位局など、義尊を取り巻く江戸初期の宮廷生活との深い関わりの中で
実相院の文化的基礎は一層確かなものとなりました。
義尊は失われた古文書、古記録を熱心に書写したため、
重要なものが多くのこされています。

また、法誓院三位局は日蓮宗の信者で、北岩倉に證光寺を創建しました。
幕末・明治期の混乱の中でこの證光寺は廃寺となり、実相院に合併されましたが、
そこに江戸末期の画壇の巨匠である岸駒(がんく)が隠棲したため、
彼の描いた灯篭「寒山拾得の図」が実相院に遺されています。